2008年07月23日
ギリシャ正教修道士と礼拝
神の礼賛は、ギリシャ正教修道院の修道士の最も重要な務めや。それは神との対話や。修道士は日に6時間から7時間、日曜と祭日には11時間あまり、ひたすら祈り続けまんねん。忍耐と献身、ほんで俗世界に対する忌避の念をもって黙想、断食をしまんねん。
修道士は全身全霊を込めてお勤めを果たしまんねん。工作、イコンの製作、農作業やらなんやらに従事するのや。修道士のなかには、修道士になる前は大工やった者、庭師やった者やらなんやら、さまざまな俗世の職業に就いとったものもいるのや。
彼らの勤めは、利益のためではおまへん。労働から得られる収入は、協会に寄付されたり、学校の運営資金に当てられまんねん。社会的貢献を促すのに用いられることもあるんや。
修道院と女子修道院はそれぞれ、共同体生活を監督する修道院長によって指揮、監督されてい まんねんわ。公認の修道院は、コンスタンチノーブル(トルコのイスタンブール)の聡主教の直轄下に置かれまんねん。一方、地方行政区の修道院は、それぞれ属する行政区の司教の管轄に置かれまんねん。
ギリシャ正教の修道院での礼拝に加わると、聖職者席で祈る修道士の姿、お香の香り、壁やイコンに描かれた聖人の像を照らすろうそくの光、ほんでドームの高みから下方を祝福しとるキリストの像に自然と敬虔な気持ちになるんや。
ローマン・カトリックに代表される、「原罪論」とは、最初の人間であるアダムは食べてはいけへんりんごを食べるちう罪を犯したんや。その罪を犯す、ちう行為がずぅぇえええぇぇええんぶの人間に遺伝し、人間は生まれながらに罪人であるちうものや。このような考えはギリシャ正教にはおまへん。ギリシャ正教では逆に、神は人間を善なるものと創造したとしとるのや。
ローマン・カトリックでは、人間が神を知ることがでけへんのはこの原罪のためであるとしまんねん。せやけどダンさんギリシア正教では、神は人間が表現できる次元に存在せんから、知る知れへんの話ではおまへんとするのや。
どことなくほっとする、温かみのある厳かさ、ギリシャ正教の修道院を訪れるとそないな気持ちになるのも、その考え方ゆえかもしれまへん。
